2014/3/28,29 世界マスターズ室内 (ブダペスト)

7秒台で世界一。これを目標に昨年12月に出場資格を得てから最初に開催されたマスターズの世界選手権、 インドアのハンガリーブダペスト大会に出場したが、結果は1位と1000分の3秒差で2位、銀メダルという結果であった。 決勝のレース、ゴールした瞬間は、自分の中では1位か2位かは5分5分だったが、周囲は口々に”You win.”というようなことを言ってくれたし、 優勝したハンガリーの選手の小さな娘さんたちが、悲しそうな顔で私のほうを見ていたので、勝ったのではと少し期待を抱きつつ結果を待った。 しかしスクリーンに映しだされた結果は…

この結果を受け止めるのには少し時間がかかった。相当悔しかったが、悔しいだけでは始まらない。 悔しい顔をしても仕方がない。勝者をたたえて、敗因を分析して、次のことを前向きに考えること。それが大切。 以下、今回はかなり長くなりそうだが、出発から、予選、決勝、帰国後のことまで含めて、今の思いを綴る。

ブダペストへ その1

ホテルと飛行機のチケットは、学校でお世話になっているJTBの上田さんにお願いした。 空港からホテルまでの交通手段や切符の買い方なども入念に下調べをして、準備万全のつもりで自宅を出た。 関西国際空港までは海上アクセス「ベイシャトル」を利用、到着後すぐにルフトハンザのチェックインカウンターを探して、エコノミーと書かれた列に並んだ。私のフライトは

だ。予定では今日の19時30分(現地時刻)頃にホテルに着く。しかし、順番待ちの列から案内表示を見ていると、びっくりする内容が飛び込んできた。 「フランクフルト空港職員ストライキ」。おいおいまってくれ、どうなっているんだ? 詳しいことは分からなかったが、明らかに嫌な感じがした。 そして予想通りカウンターのお姉さんからLH741便の欠航を知らされ、一瞬不安になったが、間もなくして代替便を紹介された。 これが最短というから仕方がない。予定より4時間半遅れ、地下鉄の終電の時間を過ぎてしまうので、ブダペストの空港からホテルまでの交通手段を変えなければならない。 できればエアポートミニバス、もしくはタクシーで行こうと考えた。少し不安もあったので、念のために一万円を現地通貨フォリント(Ft)に追加で両替しておいた。 出発まではしばらく時間があったので、ルフトハンザでキャンセルのお詫びにいただいた千円のお食事券で「マンゴーオレンジジュース」を飲んだ。 このマンゴーオレンジの代償はとても大きなものとなる。12時25分、エールフランス291便に乗り込み出発を待つ。がしかし、またしても様子がおかしい。 ここはまだ日本なので、日本語でも説明が流れる。機体の一部に不良があり調整中だとのことだった。これがなかなかうまくいかない。 結局約2時間待たされ、ようやく出発したのは14時30分頃だった。乗り継ぎに対する不安はもちろんあったので、 乗務員に聞いたところ「地上スタッフと連絡し調整している」というあいまいな返事しか返ってこない。 個人用の小型モニターに映るフライトインフォメーションによると到着予定時刻は18時22分。次の便が予定では18時15分発。本当に大丈夫なのか? 不安は増すが、これに乗ってパリに向かうしかない。機内では本を2冊読んでリラックスしつつ、万が一に備えて、これからのことも考えた(機内でのメモ)。 到着予定時刻は最後まで変わることなく、AF291便はフライトインフォメーション通り18時22分にパリ空港に到着した。 とにかく今できることは少しでも早く手続きをすることだと、チケット片手に乗り継ぎ口へ急ぎ、バーコードを案内機にかざした。ピッ。 "The Flight has already gone."やばい、カウンターの黒人女性に問い合わせてみる。 当初彼女は、私はミュンヘンまで行くと思っていたようだったので、もう一枚のチケットをちらつかせて、今日中にブダペストに行きたいと伝えた。 彼女の表情は険しい。どうやら本日中に到着することは不可能らしい。不安が募る。しばらくして、彼女から提案があった。 これしかない。想定の範囲内だ。"OK"と承諾し、2度目となる手書きチケットを受け取った。 荷物のことが気になったので、聞いてみると、ミュンヘン行の便は空港内の違うターミナルから出発するので、一度取り出してとのこと。 ここを直進してターンテーブルに向かってくださいと言われたので、赤いカーペットが印象的なパリ空港の入国カウンターを通過しターンテーブルに行くと、 ご丁寧に日本語で(関空からの便だから)「荷物の受け取りは終了しました」と書いてあり、ベルトコンベアは止まっていた。 ますます不安になったが、とりあえず荷物インフォメーションに向かい、今度は白人女性に荷物札を見せて私の荷物はどこにあるのかと聞いた。 すぐに理解してくれた。便利なものでバーコードをかざすとすぐに状況がわかる。荷物は確かにパリ空港内にある。 ここを出てすぐ左手にある34番の小さなターンテーブルから19時25分に出てきます、と聞き取って無事に荷物を手にすることができた。 よし出発まであと2時間、できることをするしかない。きれいで広い車いす用のトイレを見つけ、スーツケースを広げ、ジャージに着替える。 サブバックも試合用のものに変え、中にユニフォームやカロリーメイトなどを入れた。スパイク(3足持参) は悩んだが危険物とみなされたら困るので、不安だったがスーツケースのほうに入れた。 そして広大なパリ空港の第1ターミナルに移動し、そわそわ不安な気持ちのまま次の作戦を考えた(パリ空港でのメモ)。 不安でたまらなかったが、メールやFacebookで日本ともやり取りしながら気持ちを紛らわせて、 ミュンヘン(英語ではミュニックという。最初は何のことか分からなかった)へ向かった。

ブダペストへ その2

23時00分(出発してから24時間が経過した)、ミュニックについた。他の乗客たちは出口に向かっていたが、その流れに惑わされることなく、 "connecting"の案内を探して、一人エスカレーターで2階へと上がる。深夜の清掃スタッフが数人いる程度で、ほとんど人影なはい。 ただ、この空港は近代的でとても美しい。そしてまた広い。Gから始まる番号で表された搭乗口は一直線に配置され、端から端までだと1kmはゆうにありそうだった。 空調はよく効いており寒くなかったのは良かった。明日の搭乗口となるG37を見つけて、近くのソファで横になった。 人はほとんどいないとはいえ、貴重品は身に着けておこうと、パスポート、財布、携帯は懐に忍ばせた。 深夜の空港はこの広さに対してこの人数かと思うほど少ない人数で清掃が行われている。外からは電気ドライバーのような音。 ボルトを締めなおすようなことをしているのか。時折、電動カートが近づいてきては遠ざかって行った。朝の5時までは横になっておこうと決め、眠ろうとするがほとんど寝つけず、 2回トイレに行った。1回目のトイレの時には、清掃係りのおじさんから"Do you come from Japan?"と尋ねられ、 ドリルの音がうるさいだろうから向こうのほうがよく寝られるよと教えてもらい、おまけにおじさんが食べていたオレンジを半分分けてもらった。甘くておいしいオレンジだった。 2回目のトイレの時、懐に忍ばせていた携帯を、美しく磨き上げられたタイルの上に落してしまう。それをすぐに拾ってトイレに行くと、 さっきも気になったのだが小便器にまたハエが張り付いている。よく見るとどの便器にもハエが張り付いている。これは「ここを狙え」という意味のシールだと気付いた。 これは面白い、誰もいないし写真を撮ってやろうと、ポケットに入れなおした携帯を取り出した。が、操作できない。よく見てみると液晶に1本きれいな筋が入っていた。 画面はきれいに映っているが、一部を除いてタッチしても全く反応しない。「やってしまった」。少し気分が落ち着いてきたところだったのに、 便利な日本との連絡手段もなくなってしまい、また少しへこんだが「自分はハードルを走るためにハンガリーに行くんだ」と言い聞かせて、5時になるのを待った。 結局ほとんど寝つけなかった(液晶はアウトで操作できなかったが、サイドにあるカメラボタンは生きていたので、写真は撮れると後から気付いた)。

ブダペストへ その3

5時になった。少しは疲れが取れたようだ。機内用バッグに詰め替えておいたカロリーメイトと、パリ空港でかったミネラルウォーターを朝食にし、 ウォーミングアップを始める。ストレッチは問題なくできた。走るスペースはいくらでもあったが、さすがに危険なので走ることはしなかった。 静的、動的なストレッチやドリルを十分にしていれば、すぐに走れる。また、アップを兼ねた散歩中に無料で使用できるパソコンを発見。 ocnウェブメールとFacebookにログインできたので、携帯が壊れたことを日本語入力できないPCから送信した。これで一安心だ。 ミュニックからの機内では2人掛けの座席に1人だったので、脚を伸ばしストレッチができた。 そして8時05分、フライトスケジュール通りにブダペストに着いた。 さあこれからが勝負。まずはターンテーブルの一番先頭を陣取り、荷物が出てくることを祈る。パリとミュンヘンで2回確認はしたが、これが最後の不安だったが、荷物はちゃんと届いていた。 すぐに荷物を取り上げて出口に走る。あっけないことに10秒でタクシー乗り場に着いた。パリを経由しているのでここでの特別な手続きは不要であったのだ。 ラッキー。走ってタクシーに向っていると怪しいスキンヘッドのお兄さんに"TAXE?"と声をかけられたので、私"Yes!" 、彼"OK!"。 ととんとん拍子に話は進み、彼のタクシーまで100mほど走った。ここから市内までの相場は地球の歩き方3500~6000Ft、JTB8000Ft、と調べていたので、 こちらから10000Ftであらかじめ手を打っておいて、とにかく急いでもらった。彼は本当に飛ばしてくれ、車線変更を繰り返して車を追い越し、渋滞しているところでは裏道を抜け、 9時には会場に到着した。山あり谷ありだったが何とかスタートラインに立てる。あとはベストを尽くすのみ。

予選

会場に着くやいなや、TICに向かう。ここで受付をしてナンバーカードを受け取るのだ。ただ予定外だったのは大きなスーツケースを伴っていること。 [TICに預かってくれるよう伝えるがうまく理解されず、なんとかボディラングウェッジを交えて、200Ftの有料クロークがあることを教えてもらえた。 ちょうどそこに日本選手団が通りかかり、話ができた。このホールから出たすぐ裏手に直線のオールウェザーの走路があると聞き、 そこで基本走、スピードバウンディング、スパイクを履いて1台のみのハードル。OK。コールルームに向かう。 行ってみるとコールルームから見えるインドアのトラックでは、練習できないはずだったのにハードル練習が行われていた(まだ試合前だったからだと思う、翌日はなかった)。 ラッキーと、ここぞとばかり私も参入。まずまず動く。外のオールウェザーにはなかったスタブロもあったので、アプローチの練習もできた。 さっとハードル練習を終え、コールルームの前で時間を待った。会場でのハードルは、途中からやめるように指示が出ていたのだが、 問答無用、特にアメリカ人は注意を全く無視して、走り続けていた。到着してすぐに感じたが、いつもの大会と雰囲気が全く違う。 これがヨーロッパで開催される世界大会なのだ。いやでも気分が盛り上がった。 日本以外の各国の選手はオリンピックや世界陸上で見るナショナルチームのユニフォームやジャージを着用している。 後で日本の選手から聞いた話ではあるが、日本は陸連が"Yes"と言わないらしい。 私も持参ユニフォームで走ったが、本来はルール違反。気にはなっていたが、マニュアルには国の認めたユニフォームみたいなことが書かれていた。 よく意味が分からなかったがそういうことだったのだ。インドアの今回はパスできたが、本来はアウトになるかもしれないらしい。この件はラッキー。 ただ日本の有名スポーツメーカーでJAPANのロゴ入りウェアを作成しようとすると、まったがかかるらしい。 みな工夫してウェアを準備していた。これは組織的な課題であるようにも感じた。 予選のレース、NT(記録なし)でエントリーした自分は1組7レーン(一番右側)。右寄りを走る傾向にある自分が最も好きな位置。右に誰もいないので走りやすい。 7”94のエントリータイム1位のCollins Liam(英国)も一緒だったが、私が1位で8”16、Liamは8”40で3着にとどまった。 安定した無難なレース。いろいろあったが予選はクリアできた。またこのタイムは全体を通しても1位。この後は少し散歩をしてからゆっくり休んだ。

決勝

世界マスターズは世界のアスリート同士が交流を深める場でもあった。会場をふらふらしていると、 予選で同じ組の2着に入ったSantos Amancio(ポルトガル)に声をかけられ記念撮影、Facebookを持っているのかと聞かれたので、 "Yes"と答えると、IDカードの名前も撮ってくれ、「写真やビデオを共有できるよ」と言ってくれた。予選2位通過のPalagyi Gergely(ハンガリー)からも声をかけられ、 「8秒16だったね。僕は5レーンだよ」と言われた。 初めは「5位だったよ」だと思ったが、後から考えると5レーンだった。 それがわかっていれば対応もうまくできたのに。昨日一緒に走ったLiamともサブトラックでハイタッチの挨拶を交わしてお互いの健闘を誓い合った。 とにかく皆社交的だった。ここに来て、自分の中の世界がぐんと狭くなった気がした。ツアーの旅行では絶対に体験できない。 アップを終えて、コールを済ませて競技場に入る。皆予選の時とはテンションが全然違う。自分のライバルであろうハンガリーの選手は5レーン。 彼の練習を見ていると、彼は左脚がリード脚(自分は右脚)で、レーンの左寄りを走っていることに気付く。 これは接触するパターンだ。 スタートで出遅れることが予想されたので、後ろに押されるとまずいと考えた。 できる限り自分のスタブロを3レーン(左)寄りにセッティングした。 前半の接触も想定してイメージを膨らませ、5台目以降に先頭に出ればよいと考えた。 そしていよいよ本番。やはりスタートで出遅れたがさほどの差ではない。1台1台、 5レーンのGergelyに迫り、5台目はほぼ同じ、ランイン勝負になり思い切って左肩を突き出してフィニッシュした。どうだ?? 自分の感じでは勝ったか負けたかは5分5分。今回特にお世話になった秋山さんがゴールに駆けつけてくれ、日の丸を手渡された。 結果も分からない段階でやや戸惑ったが記念撮影。「勝ったと思うよ」とのこと。 コールルームの荷物のところに戻り結果を待つ。 M55に出場のブラジル人からも「俺の目には君が勝ったように見えたよ」と言われて、ついでに自分のレースをこのカメラで撮ってくれとカメラを手渡された。 そのやり取りをしている目の前には、Gergelyが家族に囲まれている。娘さんが私のほうを見ている。視線が痛い。 私が優位という見方が強いように思えたが、結果は先述の通りだった。会場のスクリーンには1000分の1のタイムが表示されるので、 1000分の3秒差の2位だと分かった。いろんな知識があるだけにあれこれと頭の中で考えたが、結局私は2位だ。 Gergelyにおめでとうと伝えた。彼も1000分の3秒差を気の毒だったねと言ってくれた。初めての世界マスターズ。結果は銀メダル。 くやしさは残るが気持ちを切り替えなくては。今回金メダル取れなかった分、もう一度チャレンジする理由ができたではないか。今後の予定は

となっている。ヨーロッパの大会にもう一度出てみたいとか、次は家族と一緒に行ってみたいとか思う。 5歳刻みでクラスが変わるマスターズでは、一般的には年齢の下一桁が0か5が有利だ。そのことを考えるとタイミングも重要。 子どもがまだ小さいので、一緒に行くなら40歳以降の大会か? いろいろ考えるとまた楽しくなってくる。

世界マスターズを終えて 今後のこと

この大会を通して、世界の人々とコミュニケーションをとって交流することのすばらしさを知った。 また次の楽しみもできた。マスターズだけではなく、今の自分の競技に対しての目標はざっとこんなところか。  

欲張って、大会を絞りきれないのは良くないが、とにかく上のようなことを一つでも達成したい。 それを目指すうえで、今の伊川谷高校の練習環境は自分にとって申し分ない。 しかし、このまま居心地のいいところで同じことを繰り返していても自分は変わらないのではないかという考えも芽生えてきていた。 そんな思いを抱いている中、この4月からの転勤が決まった。長田高校、自分の母校である。 設備面では十分整えられていると思うが、新しい環境に適応するのには少し時間がかかるかもしれない。 自分の練習メニューやスタンスを少し変える必要があるかもしれない。しかしそういうことをやってこそ進歩が得られるはずだ。 本当は世界チャンピオンの肩書を引っ提げて母校に戻りたかったのだが、それがない代わりに新たな目標(夢)を手にして神撫台(長田高校グラウンドのこと)に帰ってきた。 中学を卒業して、高校に入学した時から、ちょうど20年。私が好きな馬場俊英さんの「旅人たちのうた」という歌にこんなフレーズがある。

「旅人たちのうた」 馬場俊英

30代は大人の10代 青春を繰り返すような
時が流れて家族が増えて 生まれ変わった夢もある
大人になった子供たちはみな不器用な旅人だけど
いつか僕のチャンピオンベルトを腰にまいてやる
誰だって押し入れにしまえぬ思いがある

私の陸上の原点ともいえる、神撫台グラウンドに20年経ってまた帰ってきた。30代は大人の10代なのだ。 いつか僕のチャンピオンベルトを腰にまいてやる。押し入れにしまえぬ思いがある。 今の陸上部の横断幕にはこう書かれている。「夢を追え」。自分にとってもってこいのフレーズだ。20歳年下の生徒たちと一緒に、今年からは神撫台で夢を追う。

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