2022/7/8,9 世界マスターズ (タンペレ)
- M40 110mH(0.991m) 予選 15"41 (-1.2) (1着) [2022WMAC予選]
- M40 110mH(0.991m) 決勝 14"50 (+0.3) (1着) [2022WMAC決勝1][2022WMAC決勝2]
直前まで迷いに迷って大会1カ月前に出場を決断して、出発してからもいろんな不安を抱えながらの大会となったが、 無事に終わった今、結果論かもしれないけれど、やっぱり行ってよかったなと感じている。 世界マスターズは本当に面白い。 2018年のマラガ大会を終えたとき、世界マスターズにはできる限り参加しようと思うようになった。 初出場の2014年ブダペスト大会は航空機トラブルにより空港で一夜を過ごして当日の朝現地に着いた。 2回目の2015年リヨン大会のときは試合3週間前に転倒し縫合、そしてロストバッゲージ。 3回目の2018年マラガ大会は大会4週間前に内転筋、2週間前に腰を痛め、台風の影響で関西国際空港が閉鎖。 4回目の出場を検討していた2020年トロント大会はコロナパンデミックの影響で中止。 これまでにもいろんなことが起こっているが、やり直しでの4回目となった今回2022年タンペレ大会もまたいろんなことがおこった世界マスターズとなった。
出場を決めるまで
「いろんな事情はあるけれどもできる限り参加しよう」とは思ったけれども、 今回も今まで以上にいろんな事情が関係していたのでなかなか出場を決意できなかった。 まずは、出場を決意するに至るまでの諸問題について振り返ってみよう。
~日程と仕事の問題~
タンペレ大会のM40クラス110mHの競技日程は7月6日に予選、1日空けて7月8日に準決勝、翌7月9日に決勝。 夏休み中など、日程に余裕があれば予選の2日前、7月4日到着するような予定を立てるだろうが、 今回は1学期中の開催とあって、そんなにゆとりをもって休みを取ることはちょっと心苦しい。 しかも4月に転勤したばかりということで、周りの先生方に対して今まで以上に気を遣うという事情もある。 さらに出場人数の関係で予選がなくなれば7月6日着で十分なのだ。 このような状況で、もし出場するとしてもいつからいつまで行くかについてなかなか決めることができなかった。 最終的に決断したのは7月8日準決勝、7月9日決勝という日程が確定してから。 期末考査を1日、授業を1日、球技大会を1日休んで、 7月6日の深夜便で出発、7月7日夕刻にタンペレ着、予選、決勝を経て決勝の翌日に帰国するという最短の日程を組んだ。 時間的にも経済的にも効率的ではあるかもしれないが、余裕がないので交通機関の遅れなど万が一のときことが心配ではある。 しかし、職場になるべく迷惑をかけたくない。今回は最短日程でフィンランドに行って帰ってくることにした。
~世界情勢の問題~
当初最も大きな社会的な問題は間違いなくコロナウイルスであった。 2022年2月、日本マスターズ陸上競技連合より次のような発表がなされている。
新型コロナウイルス流行により、2月22日現在 外務省からフィンランドへは感染症危険レベル3(渡航中止勧告)が出ています。 日本マスターズ陸上競技連合は、今回の世界マスターズ選手権には、選手団を編成しないこととし、 代行エントリー、およびツアーのご案内はしません。 ご了承くださいますようお願いいたします。 チームマネジャー派遣の有無については、今後の状況を鑑みて決定いたします。この段階で出場を決断することは到底できず、 本来なら航空券を早期に安く確保しておきたいところであるが、 前回のマラガ大会のときに直前に購入してもなんとかなった経験もあり、 しばらく様子を見ることにした。とても決断できる状況ではなかった。 さらに数日後、心配の種はコロナだけではなくなった。 ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのだ。 連日テレビやインターネットから流れてくる「戦争」の映像を見て、 海外に行っている場合じゃないなと思うこともあった。 様子を見る日々がしばらく続いた。
4月になって、フィンランドの感染症危険情報レベルがレベル3「渡航はやめてください」(渡航中止勧告)から レベル2「不要不急の渡航はやめてください」に引き下げられたが、依然レベル2であった。 また、ロシア上空を旅客機が通過できない事情も加わって、日本からフィンランドへは羽田か成田からの便しか運航されておらず、 飛行時間も従来の9時間程度から大幅に長い14時間程度となっていた。 このような厳しい状況から、やや出場に後ろ向きになっていたとき、突然こんなメッセージが届いた。
福田さん、突然のメッセージにて失礼します。 神奈川マスターズの水口(ミナクチ)と申します。 昨日発売された陸上競技マガジンの年齢別ランキングで福田さんが昨年11.15で走られたことを知りメッセージさせていただきました。 今年フィンランドで世界マスターズが開催予定ですが、福田さんは行かれますか? 実は、M40でヨンケイ組めないだろうかと密かにメンバー探していたところです。 以前、武井壮さんたちがチャレンジして届かなかった世界記録、今の40代でうまくメンバー揃えば届くんじゃないかなと、ふと妄想した次第です。 いきなりのメッセージが長文となり申し訳ございません。 もしよろしければお返事いただけますと嬉しく思います。全く知らない人からのメッセージだったが、こんな面白いお誘いはなかなかない。 水口さんはM45(男子45歳以上50歳未満のクラス)4×100mRの世界記録メンバーのひとりである。 水口さんには前向きに検討している旨を返信した。 しかも、偶然か必然か4×100mRの決勝は110mHの決勝と同じ日。 ハードルに出場するならリレーにも参加できる。 2年以上に及んでいるパンデミックを乗り越えて、2022年フィンランドの世界マスターズに出場することには、 いろんな意味があるようにも感じる。 困難があってこそ挑戦は面白い。 まだ迷っていたが、でもできれば挑戦したいという思いが強くなってきた。 4月下旬、出場するかどうかはさておきとりあえず申し込みだけは済ませておいた。 このエピソードは、前任校である長田高校の75回生向けの学年通信に書くことにした。 その原稿の締めくくりには次の一文を添えた。
以前読んだ「人生で大切なことは、すべて旅が教えてくれた」(有川 真由美)から一節紹介します。 『大切なことは、情熱を持とうとすることじゃない。自分が情熱的に思ったことを大切にすることだ。 情熱に突き動かされたことをする。情熱に従うこと。情熱の火を絶やさないことが「幸せな人生」の道のりとなっていくんじゃないか。』 情熱的に思っていることを大切にできる人でありたいと思います。
リレーについてはメンバーが揃わず出場がかなわなかったものの、6月上旬に110mHへの出場を決めた。 この時期は日々航空券の情報をチェックしていたが、6月になって燃油サーチャージ代が一気に上がった影響で航空券の値段がぐんと上がった。 そんな情報事前にチェックしておけよと自分に対して思ったが、終わったことは仕方ない。 6月から日本帰国時に空港でのPCR検査の必要がなくなるなど水際対策が緩和されるという情報も入ってきていたので、 この段階で思い切って出場することを決めた。 航空券については、燃油高、円安の影響で直行便には手が出せず、今回も少し割安の経由便で現地へ向かうことにした。 今回は羽田からトルコのイスタンブールを経由してヘルシンキへ。その後鉄道でタンペレへと向かう。まだまだコロナは収束していない。 ロシアのウクライナ侵攻の行方も全く見通しが立たない。 そんな状況ではあるが、情熱的に思っていることを大切にした。4回目となる世界マスターズ、フィンランドのタンペレへ行くことを決めた。 7月になって、フィンランドの感染症危険情報レベルがレベル1「十分注意」に引き下げられた。
~PCR検査問題~
フィンランドに行くのはいいが、日本に帰ってくるためにはPCR検査を受けてその陰性証明がなければ入国はおろか飛行機にも乗れないことになっていた。 万が一フィンランドで「陽性」となれば、現地で宿泊先を確保したり、飛行機を取り直したりしなければならない。これは大変なことである。 行くことを決めてから最も大きな悩みのひとつは、いつPCR検査を受けるかという問題であった。 AAVAという医療機関がフィンランド国内にはいろんなところにあり、そこでPCR検査を受けることができる。 通常検査は189ユーロで結果は翌日に判明、rapid PCR検査は300ユーロで結果は2時間程度で判明する。 空港でrapid検査を受ける場合は事前予約が必要とのことであった。 陰性証明のためのPCR検査は、出国前72時間以内に実施すればよく、私には複数の選択肢があった。 (1)予選の日にタンペレのクリニックで通常検査、(2)決勝の日にタンペレのクリニックで通常検査、(3)帰国の日にヘルシンキの空港でrapid検査、 の3つである。 当初は、感染リスクをなるべく減らすためにも、出費を抑えるためにも(1)案が良いと思っていた。 安心のために、事前に国内でPCR検査を実施してからフィンランドに行ったらいいのではと考え、一度は国内のPCR検査の予約までしていた。 しかし、予選の日に検査をして万が一のことがあったら、何のために行っているのか分からない。 「帰国するため」ではなく「走るために」行くのだ。 腹をくくって(3)案にすることにした。国内のPCR検査もキャンセルした。最後の最後までドキドキの世界マスターズである。 先にフィンランドに行っている日本のチームマネージャー内田さん(結局派遣されることになった)に倣って、 予約は到着時に行うことにした。
~腰痛問題~
競技以外のことで頭を悩ませる問題が多くあったが、一番の問題は自分のコンディションかもしれない。 世界マスターズに向けては、4週前に日本選手権(マスターズオープン種目100m)、2週前に布勢スプリントに出場して、試合を通して調子を上げていこうという計画だったが、 日本選手権前日の土曜日におこった「ぎっくり腰」で見事に計画が狂った。 日本選手権には到底出場することはできず。 その土曜日と翌日の日曜日は生活すること自体が苦痛なほど腰が痛かったが、翌週の月曜日と水曜日には軽めの運動ができた。 1週間ほどはまだ日常生活でも腰に不安があるほどだったが、やれることを少しだけやった。 何とか走れるようになったのが金曜日。 この日はゆっくり200mを4本走った。40秒から初めて最後の1本で30秒。 翌日の土曜日も200mを3本走った。30秒から初めて最後は26秒。 徐々に走れるようになってきた。 この週に強化練習を行い、翌週に練習量を落とす流れを計画していたが、 この時点で3週間後に迫った世界マスターズのことを考えると、この翌週に負荷をかける必要があると判断した。 布勢スプリントも棄権して、世界マスターズの3週前と、2週前に強めの練習を行い、 その後は練習量を落としてコンディショニングを行うという計画。 その計画は予定通りに消化できた。 練習での100mや200mのタイムもまずまず出るようになってきた。 曲走路の形状と風向き、微妙な高低差の関係で長田高校のグランドよりややタイムが出やすいと思っている神戸高校のグランドでの加速走のタイムは、 200mが23秒49、100mが11秒12。そう悪いタイムではない。だけどなかなか自信が持てない。 スタートからのハードルの感触がなかなか良くならなかったが、出発2日前に王子競技場で行った最終ハードル練習では自己採点で90点までもってこれた。 完璧とまではいかないがかなり良い状態まで仕上げられていることが確認できた。 これが大会直前の月曜日、本番はその週の土曜日。金曜日の予選を最終調整として、土曜日にさらにもう一段良い状態に持っていけるかどうか。 今回は事前に試合に出ていないために、実戦を通して自信を得ることができていない。 練習でも確固たる自信を得ることができなかった。走ってみないと分からない。 しかし自信をもって走るしかない。期待と不安が入り混じる。
~台風問題~
強化練習を無事に終え、PCR検査の日程の決断もして、あとは最終調整と仕事の段取りをすませるだけとなった段階で台風4号が発生した。 予報によれば台風4号は九州に上陸した後、7月6日頃に西日本から東日本に接近するという見通しだった。 7月6日といえば私がフィンランドに向かう日だ。なんてこった。 羽田空港までたどり着けなかったらどうしよう、羽田空港から飛行機が欠航したらどうしようと、また不安の種がひとつ増えた。 念には念をということで、水曜日に入っていた試験監督の担当を月曜日と火曜日に割り振って(担当の先生と個人交渉でOKなら可能)、 7月6日水曜日の午前中を空けた。なるべく休む期間を短くするためにその日は午前出勤してから羽田に向かう計画だったが、 いろんな可能性を考えて結局1日休みを取ることになった。 幸い台風による被害はなく、新幹線は通常通りに運航、航空機も定刻通りに日本を出発した。 あらゆることに対して、もしもの場合に備えていろんな選択肢を考えたり準備をしたりすることは私の長所なのかもしれないが、 もう少し楽観的になりたいものだとも思った。
タンペレへ
今回も直行便ではなく経由便、しかも羽田発。 自宅から神戸市営バス、地下鉄、新幹線、京急電車と乗り継いで羽田空港へと向かった。 台風4号はすでに勢力が衰えて熱帯低気圧に変わっており、交通機関に影響を及ぼす可能性はほぼなくなっていたが、 念には念を入れて早めに羽田空港に到着した。 羽田空港の国際線ターミナルは閑散としていた。 イスタンブールやヘルシンキの空港の賑わい方とは大違いだ。 ターキッシュエアラインズのチェックインカウンターのオープン予定時刻は19:05だったが30分ほど前から短い列ができ始めていたので、 私もその列に加わり、早々にチェックインを済ませた。両便とも通路側を確保。 腰への負担を考え、何としても通路側の席を確保したかったので、 往路の羽田イスタンブール間のみ有料で座席を指定したが、その必要はなかったかもしれない。 ただ、予約していたからか偶然か、私が座る列には3席のうち私1人しかいなった。 これはラッキー。少し狭かったが横になって休むことができた。 13時間のフライト中は、時差調整のためにもなるべく長時間寝ることにしていたので1回目の機内食を食べてからすぐ眠った。 2回目の機内食後は、フィンランドに関する映画としてダウンロードしておいた「かもめ食堂」という映画を鑑賞した。 素朴な映画だった。
イスタンブールの空港に到着した。ここも前回トランジットしたアブダビ空港同様、近代的な国際空港である。 そのアブダビ空港ではクレジットカードが利用できず、ユーロ紙幣で買い物をしてもお釣りがもらえないという苦い経験をしたので、 今回はユーロの硬貨も用意しておいた。満を持してイスタンブール空港ではユーロ硬貨でペットボトルの水の代金を支払い、その後トルココーヒーをたしなんだ。 トルココーヒーは薄いのだか濃いのだかよくわからない不思議な味がした。これがトルコの味なのだと思った。 ただし、ここでの価格表示はトルコリラだったものの、ユーロで支払ってもお釣りがもらえたしクレジットカードも使用できた。 硬貨はなくてもよかったのだが、念には念を入れて安心したのが私の性分なのである。 とはいうものの、キャッシュレス化が進んでいることは知っていたので、用意するユーロは最低限の額に留めておいた。 ここのお釣りで得たさらに小額の硬貨をヘルシンキ駅のキオスクで利用したら、ちょっと苦笑いされた。 なるべくクレジットカードで支払おうとあらためて思った。
イスタンブールからは3時間とちょっとでヘルシンキに到着する。 その道中、モニターに映る地図にはキーフやドネツクといった地名が現れた。 つい先日にはフィンランドとスウェーデンのNATO加盟に難色を示していいたトルコが態度を一変させて、両国のNATO加盟手続きが前進している。 ウクライナ近くの上空をトルコからロシアの隣国フィンランドへ向かっているあたり、なんだか少し心穏やかでない。 このこととは全く関係ないことだが、安倍元首相が奈良での演説中に射殺されたのもこの大会中だった。 何が起こるかわからない時代である。だからこそ行けるときに行っておくということは大切なのだと、頭の中で自分の判断を後押しした。
ヘルシンキ空港に到着した。 出国前にイスタンブール空港を経由してタンペレへ向かうことをチームマネージャーの内田さんに伝えたところ、 「イスタンブールはマラガの時もトルン(室内大会)のときも鬼門でした」とのメッセージが帰ってきて不安が増していたが、 トランジットに3時間あることを確認のうえチケットをとっており荷物も一緒に無事に到着した。 リヨンでロストバゲージを経験しているだけに、今後も毎回緊張の瞬間となりそうだ。 荷物を受け取り到着ロビーを出た目の前にPCR検査を行うAAVAというクリニックがある。 ここからは100%英語でのやりとりになるが、無事にPCR検査の予約をすることができた。 英語であらかじめ用意しておいた決まり文句を私が言うことはかなりできるようになり、大体伝わるようになった。 ただ言っていることの聞き取りや日常会話はまだまだ難しい。 検査を行うのは帰国する当日の午前中、これから大会中に感染したらどうしようかと、この期に及んでも試合のことよりもむしろPCR検査のことが気になる時間帯もあった。 最初の飛行機、イスタンブール空港、次の飛行機、と旅程が進むにつれてマスクをしている人の割合が減少し、 ヘルシンキからタンペレに向かう電車の中ではマスクをしているのは私だけといっても過言ではないような状況もあったが、 感染防止のためにマスクはしておかなくてはと、その後もマスクをしたままタンペレを目指した。 神戸市営バス、市営地下鉄、新幹線、京急電車、飛行機2便、空港からヘルシンキ中央駅までの電車、そしてVRという長距離電車を乗り継いでようやくここまでたどり着いた。 ただ誰かが運転してくれる乗り物に乗ってフィンランドのタンペレにやって来ただけだけれども、ここへ来るだけでも何かに挑戦している気分になった。 疲労を感じたときにPCR検査のことが頭に浮かんで、不安になることもあったけど、 ヘルシンキ中央駅の雰囲気を味わって、車窓から景色を眺めていると自然と気分は高まってきた。
計画通り16:00頃にタンペレ駅に到着した。予選前日の夕方である。 大会に申し込んだ後、出場するためには受付でアスリートビブスや記念品などのが入ったバッグを受け取り、その後オンライン上で参加の意思の確認を行う必要がある。 マラガ大会の時の締め切りが確か前日の21:00だったので今回も時間的に大丈夫だろうとたかをくくっていたら、今回の締め切り時刻は前日の17:00となっていた。 私が滞在するホテルはタンペレ駅の目の前にあり、そこから競技場までは徒歩で10分ほどの距離だったので、チェックインを済ませて荷物を置いてからでも17:00にギリギリまにあうだろうと最初は考えたが、 チームマネージャーによる代行手続きも可能とのことで、結局、内田さんにパスポートのコピーを送信して代理で私が到着する前にあらかじめ受付とオンライン確認を代行してもらった。 こんな手続きもあるし、時差によるだるさもあったりするので、可能ならば前々日には現地入りするのが理想である。
今回は代行で確認作業まで行えたので余計な心配をすることなくホテルに荷物を置いてから競技場に向かうことができた。 そして予定通り16:30には内田さんに会うことができた。 私が到着する時間帯には [1500mの決勝]のレースが行われていたが、会場はコロナの気配はみじんも感じさせない盛り上がりようである。 この盛り上がりを感じたときにも、やっぱりここにきて良かったと心から感じた。 故障や体力の衰えに抗いながら強い意志を持って競技するマスターズアスリートの姿がすばらしい。 記録の良し悪しに関わらず選手をリスペクトし拍手や歓声を送るスタンドの人々の姿もまたすばらしい。 世界中からマスターズ陸上を愛する人々が集まり、陸上競技を全力で楽しみ、それを認め合う文化がここにはある。 やっぱりここにきて良かった[M75 80mH決勝]。
予選
予選も決勝も朝の10:00過ぎにレースが組まれているので、6:00には朝食をとって、7:30には出発したいと考え、宿泊前にメールでアーリーブレックファーストの予約をしておいた。 メールの返信でも、チェックイン時に確認した時の返事も「OK!」という感じだったで、レストランに入って食べれるものだと勝手に思っていたがそうではく、 アーリーブレックファーストは紙袋の中にセットされていた。 その中には、サンドイッチ、フルーツ、スムージー、オレンジジュース、チョコレートが入っていた。 こんな感じなんだと思ったが、まあこれで十分だ。それらを部屋食べてから計画通りの時間に出発した。 外の気温は15度くらいだっただろうか。少しひんやりしていたが北欧の日差しは強く日向では暑いと感じることもあった。 事前の天気予報では雨も予想されたが、雨の心配はなさそうだった。 ただ私の身体には心配な個所があった。 今週になってから、おそらく腰の状態が何かしら関係しているのだが、スピードを上げて走ると左脚の太ももの前面がこわばって固くなるという現象おこるようになっていた。 過去にあまり経験したことのない現象であるが、腰痛後はほとんど毎回左脚に問題が生じている気がする。なぜそうなるのかはよく分かっていない。 その「こわばり」具合がどれくらい強く出るかが不安だったのだ。 ただ、結果的には、幸いほとんどこの「こわばり」が生じることなくアップを終えることができた。
ところで、今大会のM40クラスの110mHはあまり良い記録を持った選手がおらず、私の勝負する相手はカナダのHinton選手ただひとりだと考えていた。 彼はマラガ大会の決勝で3位に入っており、当時はノーマークだったが、そこでの私とのタイム差はたったの0"1秒だった。 さらに、World Masters Rankingというサイトの情報によれば彼は今シーズン14"34で走っている。 今季は私の調子がそれほど良くないだけに、そう簡単には勝たせてもらえないと考え、彼にいかにして勝つかが今大会の課題のひとつであった。 ウォーミングアップエリアに来る時間が早いのは日本人かイタリア人だと聞いたことがあるが、 この日は私を含む日本人とイタリア人と同じくらいの時刻に、Hinton選手はウォームアップエリアに現れた。 たったひとりでやってきている自分に対して、彼は2人の女性とともに3人でやってきている。その2人の女性に見守られながら彼はウォームアップを始めた。 すこしピリピリした感情が私の中にもあった。決勝を見据えて、お互いに様子を探りあっているようにも思えた。 マラガ大会で私が2位、彼が3位になったとき、彼はメダルセレモニーに現れなかった。 私の勝手な想像であるが、彼は今回何としても金メダルを取るんだという意気込みでここにやってきているのだと思った。 コミュニケーションも醍醐味のひとつである世界マスターズのウォームアップエリアではあるが、彼とは話すことができなかった。
招集開始時刻である競技開始30分前になり、コールルームへと向かった。 約100mの直送路と跳躍ピットがあるウォームアップエリアは、メインスタジアムのトラックより少し高い位置、スタンドの中段のところにある。 そのウォームアップエリアのすぐ横にコールルームがある。競技場目線でいうと1500mのスタート付近のスタンド中段の後方ということになる。 普段通りコールを受けてスタート地点に移動するはずであったが、ここで競技に関しては今大会最大のハプニングが起きた。 コールルームでは日本同様アスリートビブスとスパイクのチェックを受ける。 ユニフォームを着てスパイクを見せるだけなので、時間に間に合いさえすれば特に問題はない。 いつも通り少し早めにコールルームに到着し、アスリートビブスを確認してもらい、ベンチに座った。 しばらくすると係の人がやってきて順にスパイクの点検を始めたが、 私のスパイクを見ると、難しい顔をしてコールルームの責任者のもとへと相談に行った。 係の人は少し気の難しそうな小太りの青年だ。 相談から戻って来た彼は、私に対して「他のスパイクは持ってないか」と言い出したのだ。
私は3足のスパイクをタンペレに持ってきていた。いずれもミズノ製クロノインクスというスパイクである。 最も古い物をアップ用(白)、次に古い物を予選のレース用(赤)、一番新しい物を決勝のレース用(白)として用意していた。 雨も予想されたので、予選と決勝では違うスパイクで走ろうと考えていた。 今バックの中に入っているスパイクは練習用(白)と予選のレース用(赤)である。 そのうち予選のレース用(赤)に待ったがかかったのだ。 係の青年が言っているいる英語の内容を十分に理解できなかった私は、他に持っていないかという部分は理解できたので、 練習用のスパイク(白)を取り出して、彼に手渡した。 そして、係の青年と責任者の女性の二人は、私の2足のスパイクをじろじろ眺めて比較しはじめた。 同じ型のスパイクなのでほとんど差はない。 ところが、後から見せた練習用のスパイク(白)ならOKだと私に告げた。 少し古い分、スパイクの先端が丸くなりちびていたので、これならOKとのことだった。 ただ、残念ながらそこで言っていることは十分聞き取れず十分に理解できなかった。 ピンの形状のことを言っているのか、長さのことを言っているのか、よく分からなかった。 練習用(白)と予選用(赤)は、同じモデルのスパイクではあるが、使い込んだスパイクほどソール部分が柔らかくなるので、練習用(白)ではスピードが上がらない。 そのやり取りを通じてかなり動揺したが、予選は確実に通れる状況だったのでそこでは指示を受け入れ、練習用(白)を使うと言って鞄にしまった。 すると、その行為がまた悪かったようで、係の青年はプンプン怒った様子でテーブルのほうから黄色い紙をもってきて私の前にそれをかざした。 「イエローカード??」訳が分からずにいたら、後ろからアメリカ人の選手が、笑いながらスパイクを履くように教えてくれた。 係の青年は今履かなかったら履き替える可能性があるとかなんとか言っていたが、意味が分からなかった(英語だからという理由に加えて、行為そのもの意味も含めて)のでますます動揺した。 そういえば、ウォームアップエリアからコールルームまではタータンの通路が敷かれており、コールルームにもタータンが敷いてあった。 さらにトラックへと続く階段にもタータンが敷いてあったので、そこでスパイクを履くように決められていたのかもしれないが、私にその認識はなかった。 何が起こっているのかよく分からないまま何とかコールルームを通過することができた。 とにかく予選のレースは最も古い練習用(白)で走ることになった。
予選はそれでもかまわないが、決勝のレースも同様の指摘を受けると困ったことになるなと思った。 こんなところで心配の種がひとつ増えてしまった。 いやいや、今はまず決勝の心配の前に、まずは予選を通過しなくては。 1500mスタート後方から100mのゴール地点まで案内された。 そこに荷物を置いて競技服装になってそこからスタート地点に向かうことになる。 あろうことか、そこでさらなるプチトラブルが発生した。 スパイクの件で動揺しながらジャージを脱いでみると、何とランパンを前後ろ逆に履いているではないか。紐を結ぼうとしても紐がない。なんてっこった。 また少し焦ったが、人目に付きにくいところに移動してジャージを腰に巻いてさっと履き替えた。セーフ。 そんな感じでスタート地点に移動してレースを迎えたので、全く集中できなかった。そもそも予選はそれほど集中しなくてもよいと思っていた。 そして予定通り、リラックスして楽に走った。 結果は数値以上にやや強く向かい風を感じたとはいえ15"41。ちょっと遅すぎる。 流して14"6から7で走り、仕上がり具合をここで確認したかったが、このタイムでは全くそんな手ごたえを得られなかった。
そうこうしているうちに [予選2組]が始まった。Hinton選手の走りに注目だ。 彼のタイムによってはますますプレッシャーがかかることになる。 レース序盤は予想通りHinton選手がリードする展開となるが、やや切れ味がない。 そして5台目で派手にハードルにぶつけて派手に転倒した。 その後6台目を跳ばずに倒してしまいそのままゴールまで走ったものの失格となった。 すこしバランスが悪かったので何か故障を抱えていたのかもしれないが、Hinton選手のまさかの失格で、新たなプレッシャーをかけられずには済んだ。 結局、明日の決勝は自分自身のコンディション問題にスパイク問題が加わった状態で迎えることになった。 マスターズ陸上は自分との戦い、故障との戦いなのだ。 M45クラスで優勝した顔なじみのEliottoもこの3月にM45クラス室内60mHの世界記録を樹立して絶好調だったのにも関わらず、 その後アキレス健を痛めて、満足に走れる状態ではないと言っていた。 M45で2位に入った日本の吉岡さんも、4年前にヘルニア、2年前に大胸筋の手術をしてそこからのやっとこの舞台に戻ってこれたと言っていた。 大なり小なり誰もが故障の問題を抱えている。その中で創意工夫をしていかにして最高のパフォーマンスを発揮するかを考えて皆やっているのだ。
スパイクに関するルール
さて、ここでスパイクのピンの問題に話を戻そう。 スパイクのピンについてはハンドブックに次のような記載がある。
The call room staff will be responsible for checking the spikes on the athletes'shoes. The maximum length spikes for track events will be 7mm, with 9mm for field events. ONLY Christmas Tree or Pyramid spikes are allowed to be used. Needle spikes are not permitted.第1文と第2文は「コールルームスタッフが選手の靴についているスパイクをチェックし、トラック競技のにおいてはピンの長さを7mm以下とする」と理解している。 長さについては、ホテルに帰ってミズノのサイトで確認すると7mmと書かれており、持参した筆箱に偶然入っていた定規でピンの長さを測ったら当然ジャスト7mmだった。 長さに関しては問題ないと確信した。 では形状の問題か。形状については「クリスマスツリー型」と「ピラミッド型」は許可され、「ニードル型」は不可と書かれている。 この定義がよく分からない。もしかしたらコールルームの青年もよく分かっていなかったのではないかと思われた。 今回もお世話になったスイスチームからM50クラス100mHに出場している寺田さんの情報よると、 鋭利にとがっているピンを「ニードル型」と呼ぶそうで、先がフラットになっているミズノの固定ピンはそれには当たらないのではないかとのことだった。 寺田さんの説明を聞いて私もその解釈が妥当だと判断したし、WAのシューズに関する規定のページでもミズノのクロノインクス9は公認されていたので、当然認められるべきだと考えた。 そして、決勝では何食わぬ顔をして決勝用シューズ(白)を履いて招集場に行くことを決めた。 私が用意した反論は、上記のような形状の理由である。しかも明日履く予定の決勝用(白)は昨日ダメと言われた予選用(赤)ではないし、 偶然にも練習用(白)と色味が似ていたので、コールルームの青年にも気づかないであろうと考えた。 しかし、ちょっと神経質なコールルームの青年に絡まれたらまずいとも思い、寺田さんにはコールルームの横に待機してもらうようお願いした。 本当に心強い存在で、ありがたいとしか言いようがない。 作戦は決めたものの、コールルームを通過するまでこの不安は解消されそうになかった。 ドキドキのコールルームとなりそうだ。
コーヒーブレイク
これまでの大会では競技以外の時間をひとりで過ごすことが多かったが、今回はチームジャパンの一員として応援などにも積極的に参加した。 M45で銀メダルを獲得した吉岡さんとはこれまでに何度も一緒に走ったことがあるし、世界マスターズの大会にも一緒に参加してきたもののあまり話をする機会がなかったのだが、 今回は寺田さんも交えて一緒に食事行ったり、応援したり、たくさん話をする機会があった。 吉岡さんは、インターハイチャンピオンで、長らく日本の第一線で活躍してきた名ハードラーである。 近年は度重なる故障に苦しみながらもこの舞台に帰って来た。 話の中でマスターズ陸上に参加することの価値を共有できたと思っている。 また、決勝の日の夜には6名での反省会と称する食事会に参加することができた。 翌日に受けるPCR検査が気になって会食をすることをためらう気持ちはあったが、ここでの出会いを大切にしたかった。 同じような思いを持って世界マスターズに参加している仲間たちの存在は大きい。
決勝
部屋で一人で過ごしている時間には、決勝前夜になってもふとした拍子にPCR検査で陽性になったらどうしようかと考えることがあった。 また、予選の結果があまりにも不甲斐なかったでこんなんで来てよかったのかなと思うこともあった。 そんな思いが頭をかすめるたびに、いやいや明日のレースで力を出し切ることだけを考えなければと自分自身に言い聞かせた。 ただ、そんな不安な気持ちは、決勝の日競技場に来てアップを始めはじめるとどこかへ飛んで行っていた。 目の前のことにのめりこんでしまうタイプなのだ。アップを始めれば自分の世界に自然と入れた。 予選の時よりも試技の本数を増やし、出力を上げたが、気になっていた左太ももの状態はほんの少し硬い程度で気にするほど悪化しなかった。 予定通り決勝用のアップを済ませて、そこで決勝用スパイク(白)に履き替えてコールルームへと向かった。 いろんな意味でドキドキしている。 まずアスリートビブスのチェックがなされる。そこではスパイクについて何も言われない。 私が走るM40クラスの決勝の前に行われるM35クラス選手たちが、私たちの前の一列に並んでベンチに座っている。 我々は彼らの後ろに一列になって座っている。 今日はスパイクチェックがないのかなと様子をうかがっていると、M35の選手たちが競技場に向かう直前になってあの青年がやってきた。 選手たちは全員座ったままの状態で履いているスパイクの裏を青年に向け、逐一OK、OKと確認されていた。 ちょっとドキドキして、横で待機していた寺田さんと目を合わせて苦笑いをする。 普段こんなに神経質にチェックされることはあまりない。 しかしM40でも同様のチェックがあるかは分からない。その時はスパイクのことしか考えていなかった。 刻一刻と時間が過ぎてゆき、やはり競技場に向かう直前、あの青年はやってきた。 皆ベンチに座ったままの状態で、お行儀悪く足の裏を順に見せる。 1レーンからスパイクの裏をちらっと見てOK、OKと点検していく。 いよいよ私も番がやって来た。 私は作戦通り、決勝用(白)を履いて、何食わぬ顔をして足の裏をお兄さんに見せてやった。 結果は…セーフ! 昨日ダメだと言われた予選用(赤)との違いはあまりないような気もするが、審判員がOKと言えばOKなのだ。やっぱりあの青年は何も分かっていない。 昨日のイエローカードは、彼の言っていることを理解しない私の態度に対する警告であったと今では思っている。 ほっと一安心。不安が吹き飛んで少し興奮した状態で競技場内へ入った。さあ、あとは自分のレースに集中するのみだ。
普通に走ることができれば間違いなく勝てる。問題はレース内容と結果に対して自分が満足できるかどうか。 予選のレースとは違い、集中した状態でインターバルを刻んでスピード感を持ってフィニッシュラインを駆け抜けることができた。 フィニッシュタイマーの速報は14"51。正式結果は14"50。昨日の予選のタイムが15"41だっただけにこのタイムでも満足できた。 ゴールした瞬間に「よし」と思えてガッツポーズが自然と出た。 昨年出した自己記録14"01に比べると見劣りするタイムではあるが、この場に至るまでの様々な状況を考えれば十分であった。 その後はM40のメンバーとお互いの健闘を称えあって写真撮影。 今回は今まで以上に一緒に写真を撮影しようと声をかけられる場面が多かった。 セルビアから来ている選手とはコールルームでも一緒に写真を撮ったほどだ。 スマホやSNSを積極的に活用するマスターズアスリートが増えてきていることの現われかどうかは分からないが、 レース後は自分も積極的に一緒に写真を撮ってもらうことにした。 世界中の陸上好き、ハードル好きの人々との交流が世界マスターズの醍醐味のひとつなのだ。 ただ、コールルームでの出来事も含め、再度痛感したのが自分の英語力の低さである。 実は、2018年のマラガ大会の前後から、通勤の車内で毎日英語ニュースを聴いていて、昼食を食べながらその英語ニュースの記事を読むことを習慣にしている。 旅行英会話のCD付きテキストも一冊個購入して何度も何度も聴いている。 それでも、英語を母語とする人とも、英語を第二言語とする人とも、簡単なスモールトークさえ思い通りにできない。 聴き取れないことがしばしばある上に、思っていることがうまく伝えられないのだ。 ニュース英語を聴くことは、内容的に興味が持てて面白いので今後も継続するが、 今後はより日常会話、特にスピーキングの学習も何らかの形でできたらいいかなと思った。 英語が十分に話せれば、もっともっと世界マスターズを楽しめるはずだ。
いざ帰国の途へ
昨日、一昨日は試合が10:00からだったからアーリーブレックファーストを依頼したが、 最終日となるこの日も、7:04発の電車を予約していたため、結局同じ朝ごはんとなった。 3日目となれば慣れたもので、この日もフロントで紙袋入りの朝食をもらって、部屋で食べてからヘルシンキの空港へと向かった。 電車の指定席に座ると、偶然ひとつ後ろの席がM45の110mHで優勝したEliottoの座席だった。 彼に初めて会ったのはリヨンの地下鉄のホームで、そこで彼から競技場までの行き方を尋ねられたのだった。今回も偶然近くの席となった。 電車を降りてからはW80クラスに参加していたアメリカ人女性選手と3人で空港の出発ロビーまで一緒に歩いた。 Eliottoとその女性の会話に加わろうとするが、あいづちを打つのが精一杯。 女性はこの年になるとひとりで来るのが大変だと言っていたが、聴き取れない部分も多くあり、ここでもあらためて英語力不足を痛感した。 ウクライナとロシアの戦争のニュースに出てくる難しい単語はここでは不要、日常英会話をきちんと聴き取って、自分の思いをしっかりと伝えられる力が必要だった。 それでも、日本人はPCR検査を受けて陰性でなければ帰ることができないことぐらいは伝えることができたので、Eliottoたちにそのことを伝えて、AAVAというクリニックへ向かった。 到着時に予約をしてるので受付はスムーズにでき、しばらく待ってから椅子に座らされて、左右の鼻の奥をグリグリとされて無事検体を採取してもらった。 後は結果を待つばかり。1時間から2時間以内には結果が出てスマホに通知されると伝えられた。 ドキドキするが、結果を待つしかない。18:45発の飛行機まではまだまだ時間があるので、計画通りに荷物を預けてからヘルシンキの街に向かった。
まずはヘルシンキ大聖堂を目指した。やっぱり街並みが美しい。写真を撮ったりしながら歩いていると、1件のメッセージが届いた。 それはPCR検査の結果ではなく、現在青年海外協力隊員としてブータンに派遣されている斎藤先生(伊川谷高校勤務時代にもお世話になった高校・大学の先輩)からのメッセージだった。 「PCRはどう?」 タイミングがいい。そのメッセージの数分後にAAVAからのメッセージが届いた。結果は「negative!」 ほっと一安心。これで無事日本へ帰れる。 すぐさま斎藤先生にPCR検査の結果を知らせたら、「ヘルシンキと言えばかもめ食堂だね」との返信。 「かもめ食堂!」偶然行きの飛行機で見たあの映画ではないか。 これは行かねばと思い、斎藤先生に住所を教えてもらい、トラムに乗ってかもめ食堂へと向かった。 予定外の展開だったが、この日はヘルシンキ交通の1日乗車券を購入していたのでトラムにも乗り放題だった。 異国の地でトラムと呼ばれる路面電車に乗ること自体が楽しいのだ。 かもめ食堂は映画を見ていなければ何の変哲もない喫茶店だったが、日本語で「かもめ食堂」と書いてあった。 残念ながら日曜は定休日で、中に入ることはできなかったが写真を撮るだけで十分満足できた。 そこで食べることができなかったかもめ食堂の定番メニュー「シナモンロール」を近くのパン屋さんでゲットして、歩きながら食べた。満足満足。 その後もトラムに乗ったり歩いたり、短時間ではあったがヘルシンキ市内観光を満喫して再び空港へと戻った。 ちょっと疲れたので、空港のフードコートで生ビールとホットドックを注文して食べた。ひとりで外食することくらいは簡単にできるようになった。 なにげない会話を英語ですることは十分にできないが、海外旅行に必要な最低限の英語力は身についたようにも思う。
今後のこと
迷いに迷って参加した2022タンペレ大会、行って走って帰ってくる弾丸ツアーとなったが今回も大満足の世界マスターズとなった。 やっぱり世界マスターズは面白い。今後のスケジュールは次の通り。
- 2024年8月(予定) スゥエーデン・イエテボリ市
- 2026年 韓国・大邱市
次回の大会からはM45クラスでの参加になるが、M45での優勝はもちろん、今考えている最大の目標はM45の世界記録14"38の更新である。 今後さらに更新されてからの挑戦になるかもしれないが、M45クラスでは世界一と世界記録を目指したい。 歳を重ねるにつれて計画通りに事が進まないことも多くなってきているが、 結局、置かれている状況下で自分ができることをやっていくしかない。 私の競技生活はまだまだ続く。
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